1. 公共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 

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2013年09月15日 (日曜日)

公共事業は諸悪の根源? ジャーナリズムでなくなった朝日 

◆吉竹幸則(フリージャーナリスト・元朝日新聞記者)

2020年、東京五輪の開催が決まりました。前回の五輪では、戦後復興の希望に燃える多くの若者がいました。しかし、今は閉塞感、内向き志向が強まっています。それを外に向け敵対心に変えてみても、何の進歩もありません。世界の人々と友情を育み、未来に向かってこの国の立ち位置を探る……。そんな若者を育てるためには、五輪は良い機会です。私は、東京五輪そのものに水を差すつもりはありません。

しかし、「新しい五輪」なら「新しい革袋」にです。五輪のインフラに期待。投入される税金の何割かをかすめ取ろうと言う政治家、官僚、古い体質の経営者の食い物にされ、借金が溜まるだけの五輪なら、止めたほうがましです。 衰えたとは言え、この国の民間企業には、まだまだ多くの蓄えと技術力があります。

五輪は、その日本の技術力を世界に宣伝するいい機会です。民間資金で、必要なインフラを整備。誇示した技術力でビジネスチャンスを見つけ、出資した企業は投資した資金を回収する。私はそんな新しいタイプの経営者が参加する「完全民営化五輪」を提案します。官に頼り、分け前を手に入れようとする姑息な経営者は、もうこの国に必要ないのです。

◇ジャーナリズムの役割は権力の監視

「公共事業は諸悪の根源」のこのシリーズ、今回で6回目です。前回までで官僚がいかに腐敗し、自らの利権のために無駄な公共事業を進めていたか、皆さんにお分かり戴けたと思います。この国を壊した責任は彼らにあります。口が裂けても、彼らを「国を支えて来た優秀な集団」などと呼ぶ訳にはいきません。しかし、監視するジャーナリズムがしっかりしていれば、何とか歯止めが出来ます。でも、残念ながら、そのジャーナリズムも壊れていたのです。

記者の仕事は、「論」より「事実」の報告です。長良川河口堰報道を朝日がどう止めたか。「今更」との読者のご批判も覚悟の上、恥も顧みず、私が具体的経過を書くのは、ジャーナリズムが監視役を放棄した場合、何が起こったかを後世に記録として残して置かねばならないと思ったからです。

既成メディアは、この朝日による長良川河口堰報道弾圧を教訓に、ジャーナリズム本来の精神を取り戻し、五輪報道では権力監視の役割を誠実に果たして行って欲しいと、私は切に願っています。

今回は、私が数々の建設省極秘資料を入手、完全に証拠固めが終わっている河口堰報道を、社会部長から「転勤だから、後輩に引き継げ」などと訳の分からない理由で1行も記事に出来ないまま止められ、1990年9月、名古屋本社社会部から、東京本社政治部に異動してからの話です。

◇朝日4本社にも序列が

朝日には、東京、大阪、名古屋、西部(九州)の4つの本社があります。新聞社が言う「本社」とは、一般会社のそれとは少し意味合いが違います。紙面の編集権を持っているところを「本社」と呼ぶのです。

ニュースは起きたところに近い程、関心が高くなります。遠いと関心は薄く、ニュース価値も小さいのです。全国紙だからと言って、全国一律の紙面を作っていては、読者の関心と一致しません。全国に散らばっている朝日記者は、自分の持ち場に応じた原稿を書きます。編集権を持つそれぞれの本社では、地域のニュース価値に応じ、記者の書いた原稿を取捨選択、見出しの大小も判断し、一つの紙面に作っていきます。

しかし、「本社」と名がついていても、それぞれに社長がいて、対等と言う訳ではないのです。朝日では、社長が常駐する東京が「本社」、発祥地である大阪が「準本社」、名古屋と西部は「支社」と言う位置付けです。

サラリーマン経験のある人なら、その「悲哀」は、お分かり戴けるでしょう。「支社」である名古屋では、幹部の人事権は東京が握っています。東京の「本社」からおかしな人物を幹部に送り込まれると、彼らは自分に都合のいいように「本社」に報告します。地方採用が多い名古屋では、そんな幹部に取り入って、身の安泰を図る人もいます。そんなこんなで、幹部の横暴をなかなか名古屋で止めることは出来ません。

朝日の人事制度は後述しますが、一応、いわゆるキャリア採用の端くれだった私は、とっくの昔に東京本社に異動してもおかしくはなかったのです。でも、前回のこの欄にも書いた通り、当時、名古屋の編集局長や本社代表を歴任した経営幹部との対立で異動が見送られ、40歳を前に初めての「本社」勤務です。

でも、本社なら様々に派閥が拮抗しています。そうそう名古屋のように一人の幹部による横暴は通じません。東京で名古屋社会部長の所業を訴えれば、そのうち潰された河口堰報道も復活出来るに違いないと、私は秘めた思いを持ちつつ上京しました。

◇河口堰報道の再スタートを期待して東京へ

しかし、記者の職場の中でも、社会部と並び最も忙しいのが政治部です。そうそう、自分の思い通りになりません。10年や20年も、政治家との人脈を培って初めてまともに情報が取れるのが、政治記者の世界でもあります。

私はまず、築地の東京本社に行き、政治部長に赴任の挨拶をしました。部長は、名古屋社会部でデスクをしていた時期もあり、私とも旧知の間柄でした。人の顔を見ると、「飲みに行こう」と誘う、もう社内では骨董品になりつつあったサムライの一人です。

実は、私の東京転勤が春から秋に延びたのも、「この部長の就任を待っていたから」との話を、後になって人づてに聞きました。例の経営幹部が私の東京異動に横槍を入れて来ても、この部長なら「社会部畑の人間が、政治部の人事に介入するな」とはねつけるだろうとの読みからだったと言うのです。

部長は、「お前さんは名古屋では大きな顔をしていたが、政治部では新参だ。新人のつもりで頑張ってほしい。1、2年したら名古屋のデスクとして帰すことになっている。今は若い記者と同様、首相番から始めてもらいたい」と、言い渡しました。私の名古屋での確執を知ってか知らずか、「男は黙って、○○ビール」(当時のヒットCM)と言って飲みに連れ出し、政治記者の心得を私に伝授してくれました。

「首相番」と言えば、聞こえはいいです。でも、政治部に配属になった20代後半から30代前半の若い記者が最初に訓練も兼ねて経験する仕事です。テレビでおなじみだと思います。首相の後ろに金魚の糞のように繋がり、一言一句聞き漏らさず、上司に報告するのですが、それだけが仕事ではありません。首相につく秘書官への夜討ち朝駆けもあります。午前6時に家を出て、帰りは翌日午前5時過ぎという日も少なくなかったのです。

とりわけ、私が赴任した頃は、以前のこの欄 (http://www.kokusyo.jp/?p=2530) に書いたように、イラクがクウェートに侵攻した湾岸危機・戦争の真っ最中でした。中東への自衛隊派遣を要請する米国の圧力が強まる中で、当時の海部政権がどう対処するか、一刻たりともその行方から目を離せません。いくら気にかかっていても、河口堰報道を言い出せる雰囲気ではありませんでした。

ただ、首相番のかたわら、中東に自衛隊を派遣するかどうかの連載班にも加わるうち、中年新米政治記者も、半人前程度の仕事はこなせるようにはなりました。

1991年4月には、自民党サブキャップへの配置換え。周りから「ヒト以下の首相番からサブキャップでは、2階級特進だな」と、冷やかされましたが、6月には「遊軍キャップ」の大役が任され、わずか1年足らずで3階級特進。政治部でもそれなりに発言権も出て来ました。

◇朝日のすべてが腐っていた訳ではない

ちょうどその頃です。名古屋社会部で河口堰担当デスクとして、私と名古屋の部長との間で板挟みになっていた人物が政治部デスクとして戻って来ました。この問題に限らず名古屋の後輩からも 社会部長の行動や強引な組織運営に悲鳴のような声が、届いていました。私はデスクに「このままでいいのか」と、相談しました。

二人の会話の中身は信義もあり、ここでは詳しく書きません。とにもかくにも、「あそこまで詰めた取材だ。河口堰の記事を何とか東京本社で復活しよう」と、デスクも協力を約束してくれました。  一方、当時、東京社会部の部長代理も名古屋でのデスク経験があり、私とは親しい間柄です。私の記者としての力量も信用してくれていました。相談したところ、「それはひどい。とにかく東京政治部・社会部の共同でこの報道が出来ないか。きっちり検討してみよう」と、いうことになったのです。 「取材経過を文書にして欲しい」と言われ、私は仕事の合間を縫って報告書を書き上げました。部長代理、デスクの根回しも功を奏し、報告書に基づき東京の政治、社会両部長によって私の取材が再検証され、極秘裏に河口堰報道復活計画が練られたのです。朝日のすべてが腐っていた訳ではありません。

◇「この調子だと名古屋の部長は・・・」

もちろん、取材は完璧で、建設省がウソをついていることの証拠はすべて揃っています。両部長による検討でも、「十分記事にすることは可能だ」ということになりました。ただその頃、うるさ型の名古屋の部長に対する東京本社の雰囲気は、「敬して遠ざける」というものでした。両部長とも名古屋の部長をあまり敵には回したくなかったようです。報道開始に当たって、一つの条件がつきました。

「君が前面に出て、東京で報道すると、名古屋を刺激し過ぎる。悔しい面もあろうが、東京社会部が主体になって報道する。君は政治部員として側面協力する形にする」ということでした。

ここまで取材してきたものが、自分の主導で記事に出来ない。記者としては、こんなに無念なことはありません。しかし、長良川河口堰がいかに無駄な公共事業か、一刻も早く読者に知らせ、工事中止に追い込むことが、何よりも先決です。自分の手柄などと言う低次元の話は、この際、どうでもよいことです。私は条件を、快く受け入れました。   その頃、私の東京での動きを名古屋の部長も薄々察知したようでした。自分で監視出来る名古屋本社へ私を呼び戻す動きを始めていたのです。それまで政治部も、私が社会部デスクとして名古屋に戻るのは、早くても1992年春と考えていました。でも、「もっと早い転勤にならないか」と、政治部へ水面下の打診が、名古屋から来ていたようでもありました。

私はある日、政治部幹部に呼ばれたのです。「この調子だと名古屋の部長は、近いうちに君を古巣に戻すだろう。君は政治部でもそれなりに仕事をしてくれた。名古屋に戻れば、何をされるかわからない。このまま政治部に残ってはどうか。君の希望があれば、先手を打ってその方向で考えたい」。政治部での私の今後の仕事、ポストについても具体的な提示も受けました。

◇記者としての覚悟

私には、長い警察記者経験があります。しかし、容疑者を他社より半日早く報道出来るかどうかで骨身を削る仕事は、もともと好きではありません。当初は政治部志望。調査報道を長くやっていると、「何より政治が変わらなければ」との思いも強くなっていました。有り難い話ではあったのです。ただ、河口堰報道がどうなるか、何よりそれが気掛りです。

あれほど取材を尽くしたのに、まだ1行も記事になっていません。多くの人にひとかたならぬお世話になって、やっと出来た取材です。にもかかわらず、なぜ記事に出来ないか、何一つ説明も出来ないまま名古屋を去らざるを得なかったのは、前回のこの欄でも報告した通りです。

河口堰報道を止めた経過はあまりにも異常です。一人の部長の横暴だけとはとても思えません。朝日の中で何か大きな力が裏で働いているのではないかと、薄々感じていた私は、東京で本当に記事にしてくれるのか、両部長の了解だけでは、まだ確信が持てていませんでした。

もし出来ないなら、協力者を結果的に裏切ったまま、政治部に留まる選択は、私には出来ません。それに、「『政治部転勤』と『河口堰報道』を取り引きしたのではないか」という、社内の心ないウワサにも根拠を与えてしまいます。

先輩・後輩からも、名古屋社会部の荒廃ぶりを嘆く声が届き、「君が戻って何とかせよ」と、言ってくる人もいました。私にとって、名古屋は大事な古巣です。名古屋に一旦戻り、部長と闘ってでも立て直す以外にないと、柄にもなく男気を出した面もあります。

「心配して戴いて恐縮です」。私は政治部に謝意を伝えるとともに、「将来のことはともかく、名古屋の部長が何か言ってきたら、部長の望み通り、名古屋に戻ってやろうじゃないですか」と、名古屋を土俵に部長とわたり合う覚悟を伝えました。

◇「名古屋で潰した報道を、東京で蒸し返すのか」

何度も、翻意も促されました。でも最後は了解してもらいました。「もう、異動は遠くないかも知れない。最後にしたい仕事はないか」と聞かれ、私は迷わず、「建設省クラブに所属したい」と、答えました。

東京で河口堰報道が開始出来るなら、それに越したことはありません。その場合でも、私が建設省クラブにいると好都合です。もし出来ずに名古屋に戻ることになっても、その時の経験は何かと今後の河口堰取材にとって有益です。

政治部幹部から、「内政キャップにするから、自治省担当はどうか」とも尋ねられました。通常は、内政キャップは自治省担当が務めるからです。でも、私はあくまでも「建設省」にこだわりました。

「なら、建設省担当でいい。でも、内政キャップの肩書きはつけておくから…。自治省担当記者をキャップ代行にする。実質、キャップの仕事はやらなくていい。存分に、建設省の中を見ていきなさい」と、温かい言葉をかけてもらいました。政治部キャップの肩書きをつけた私を名古屋に戻すなら、名古屋の部長も、それなりのポストを用意しなければならず、むげには扱えないだろうとの政治部の温情でした。

相前後して、東京社会部の担当デスク、担当記者の選任も終わり、東京本社で、河口堰取材の体制が出来上がりました。私も建設省記者クラブに所属。社会部の担当記者も名古屋社会部からの旧知の間柄で河口堰にも詳しく、打ち合わせもすんなり終わりました。

もともとデータは完全に収集し終わっている話です。私の書いた予定稿を「引き継いだ」名古屋では跡形もなく消えていても、フロッピーにコピーして持って来ています。最終の詰めをし、いつ口火になる記事をフロッピーから取り出して出稿するか。スケジュールもおおまかに決め、順調な取材班のスタートに見えました。

でも、その直後です。突然、私は政治部に呼ばれました。名古屋の部長から電話があり、「名古屋で潰した報道を、東京で蒸し返すのか」と、えらい剣幕だというのです。

「東京社会部で担当デスクになったのは俺の子分だ。電話をしたら、『やらない』と約束した。政治部だけでやることはないだろうな」。そう言って、すごんできたと聞きました。政治部が確かめると、東京社会部長にもほぼ同様の電話があったとの話です。「子分」なんてヤクザの世界でもあるまいし…、です。でも担当に決まっていた社会部デスクが、「やらない」と尻込みしているのも事実でした。

◇社内のキャリア組とノンキャリア組

調べてみて、名古屋の部長に漏れた経緯もつかみました。でも、そんなことはどうでもよかったのです。私はむしろ「ついに名古屋の部長も、焦って墓穴を掘った」と、内心ほくそえんだのです。

何故なら前述の通り、朝日では、実質、東京本社、名古屋支社の位置付けです。名古屋の部長より東京政治部長や社会部長ははるかに格上。二人は、私の取材報告も読んでいます。名古屋の部長の行為は、新聞社では絶対あってはならない報道弾圧そのものだと、すぐに分かるはずだからです。「これで名古屋の部長は何をやっているか、東京でも明白になる。ただでは済まないはず」と、思いました。

その頃、政治部長は「サムライ」から人は良いが、「お公家さん」と呼ばれるおとなしい学者肌の人に代わっていました。しかし、社会部長はやはり酒好きの「サムライ」の一人でした。名古屋の部長とは犬猿の仲。周りは「マングース対コブラの闘い」と茶化していました。「マングース」なら「コブラ」にとどめを刺してくれると踏んだのです。

その時は、両部長が名古屋の部長を恐れる理由は、何もないと私は思っていました。今は少し朝日の人事制度も変わってきましたが、その頃の朝日は、国の官僚・キャリア制度を批判しても、それと変らない官僚機構でした。

前にも少し触れましたが、定期入社試験に合格して入社、社内では「練習生」と呼ばれるキャリア組。安い給料で働く「地方通信員」などを経験して、やっと社員の身分を得た地方記者採用、支局や社内アルバイトをして見出され、入社した人たち。それに他社の記者から入ってくる途中入社組。これらの人たちは、いわゆるノンキャリアです。

主要幹部のほとんどはキャリアが占め、二人の部長ももちろんキャリアです。名古屋の部長は、記者としての実績が高くても、他社から採用された途中入社組です。私も名古屋に長く置かれも、一応キャリア組です。幹部とぶつかり抵抗しても、大幅な左遷はされず、名古屋ででかい顔をしていられたのはそのためでもあったのです。

私も一度の入社試験で記者の値打ちを決めるようなキャリア制度は、決していい仕組みとは思っていません。ただ、一つだけ利点を探せば、キャリアはある程度、身分が保証されています。組織が倫理を踏み外すことがあれば、堂々と異論を唱え、是正を求めやすい立場です。

これがキャリア制度の組織に備わった唯一の自浄の仕組みです。私もキャリアの端くれである以上、自浄作用を働かせる義務があると思ったのも、ここまで幹部に対し抵抗した理由も、そこにあったのです。

普通、ノンキャリアが問題を起こしたり、上司に嫌われれば、途端に飛ばされるのも組織の常です。今回はキャリアの部長同士の決定に、ノンキャリアの名古屋の部長が盾突いたのです。名古屋の部長の方が切られて当然と思えました。

◇河口堰報道をつぶすための監視体制

ただ、国の官僚機構もこうした自浄作用がありながら、どうして腐り切ってしまったか。私は河口堰以外でも多くの調査報道を体験してきました。その時垣間見たのが、強大な人事権を持つ幹部キャリアが、自分の手下としてノンキャリアを使って汚いことをやらせ、自分は手を汚さずに上澄みを手に入れる構図でした。

使われたノンキャリアもそれなりに地位を得ました。異論を唱えた真面目なキャリアは飛ばされました。抵抗せずに仕方なく幹部に従ったキャリアは、そのうち抵抗感を失い、自分も幹部になるとノンキャリアを使い、同じことを繰り返しました。これが官僚組織の倫理観をどんどん衰退させ、国の行く末さえ危うくしている原因だと、私は思っています。

朝日のキャリア制度の裏で何が起きていたか。もちろん様々な傍証、伝わってくる間接証言から、ある程度のことは私も分かってはいるつもりです。でも、自分の組織に向かって調査報道を仕掛ける訳には行きません。記者は自分が体験したこと、直接証拠を入手したものは書きます。しかし残念ながら、それ以外は書かないのが職業倫理です。申し訳ないのですが、ここではこの程度の表現でご勘弁下さい。

ただ、「国の官僚組織ほど朝日の組織は腐っていなかった」と言い切ることは、私にはとても出来ません。とにもかくにもこの時、東京の両部長が出した結論は、「名古屋で始めた取材だ。名古屋の部長が『やらない』と判断した以上、東京では出来ない」と言うことだったのです。

私にその時、「何で」と言う気持ちと「やっぱり」との思いが交錯していました。私に結論を伝えにきたデスクも苦しい表情でした。もちろん「おかしい」と私は訴えました。でも、結論が変わることはありませんでした。

両部長が二人でこっそり決めた結論ではなかったはずです。何より両部長が名古屋の部長に遠慮しなければならない理由はありません。東京編集局全体で導いた結論なら、何処から両部長すら黙らせる強い力が働いたかです。

東京本社の廊下で私とすれ違った東京・社会部長は、口にチャックのゼスチャーをし、一言、「身のためだ」と言って通り過ぎました。「マングースも偉くなると、コブラも捕らなくなるのか」。この決定を知る人は朝日の中でごく少数でしたが、そんな人からこんな声も出ました。「マングース」も内心、忸怩たるものがあったはずです。

東京本社でも部長の許可がない以上、記事を書けません。指をくわえるしかなかったのです。しばらくして、名古屋の部長から私を「新設の豊田支局長に異動させる」との話が政治部に舞い込みました。

豊田は愛知県豊田市にあり、名古屋社会部が統括する支局の一つです。それまで一人勤務の地方の通信局でした。「トヨタ自動車の隆盛に伴い、取材拠点を強化する」として、二人勤務の支局へ昇格させ、「トヨタへの手前もあるから、初代支局長は、政治部経験者がいい」が、私の人事の表向きの名目でした。

ところが名古屋社会部の同僚に聞いてみると、内情は違いました。支局は支局長、支局員の二人制でしたが、トヨタの担当は、経済部員兼務の支局員。支局長に指揮権はなく、支局長はトヨタの正面取材ではなく、今までの通信局長時代と同様に、地方版を中心に一人で地域を担当するという職務分担が経済部との覚書であらかじめ決められていました。

何よりも支局開設を前提にその夏、私よりはるかに年下の経済部員を「支局長にしてやる」と、豊田通信局長に異動させていたのです。その約束を数ヶ月で反故にし、他の支局員に異動させて、私を後釜に据える強引さでした。

政治部キャップなら、次に他本社に異動してもそこのデスクと相場は大体決まっていました。政治部もだからこそ、私にキャップの肩書をつけたままにしてくれていたのでしょう。しかし、名古屋の部長には、そんな社内の常識、配慮さえ通用しません。

東京に置くと、私を制御出来ません。後々、今回のように河口堰報道を蒸し返されると面倒になります。かといって名古屋社会部本隊に私を戻せば、河口堰報道再開を強く求めてくるのは目に見えています。豊田なら、河口堰は管轄外。いくらでも取材をストップさせる名目は立ちます。名古屋の部長の意図は、そんなところだったのでしょう。

◇視線の先には、自民党建設族のドンが、広い一室の中央に陣取って・・・

政治部長から「本当に名古屋に戻っていいのか」と、再度、意思確認を求められました。周りからも「断って、政治部に残れ」と、説得を受けたのも事実です。しかし、残っても河口堰報道が再開出来るメドはありません。 何と言っても、豊田も名古屋社会部の組織です。上司、部下の関係で、部長と直接やり合う方が早道と、その時は考えました。「名古屋の部長が、挑戦状をたたきつけた以上、戻って闘いたい」と、私はきっぱり政治部長に決意を伝えました。

豊田への異動は1992年元旦付けに決まりました。年末ぎりぎりまで、国の予算編成取材で建設省の記者クラブに残っていました。最後の記事を書き終えた夜のことです。同僚から「ちょっと面白い場所がある」と誘われ、国会裏のホテルに出掛けました。

覗(のぞ)くと、私の夜回りで名古屋の部長を「○○ちゃん」「○○ちゃん」と親しげに呼んでいた自民党建設族のドンが、広い一室の中央に陣取り、公共事業の予算配分や割り振りを、陣頭指揮をしていました。

「最後に見ておいた方がいいと思って……。今後、何かの記事を書く時、ネタの一つにはなるでしょう」。同僚は、そう言いました。

なるほど、社会部記者では警戒され、絶対見られない光景です。私たち政治記者に見せるにこやかな顔とはまるで別人のドンは、厳しい表情で、あれこれ取り巻きの代議士や建設官僚に指示を出しています。私は、本当の「河口堰の現場」、無駄な公共工事の元凶・中枢と言える場所を、その時初めて見た思いがしました。

政治部に残った方が良かったのかも……。後ろ髪を引かれ、建設省記者クラブに戻った時です。「何でこんなに早く、転勤になるのか」と、声を掛けて来た他社も記者もいました。

クラブにある程度の時間までいると、建設省の広報担当者が飲みに誘って来ます。金の出所も定かでない誘いにうっかり乗ると、どこで足をすくわれるか分かりません。

私は断り続けていたのですが、振り向くと誘いに乗り、よく出掛けていた記者の一人でした。この人物は、建設省外郭団体の広報誌にも原稿を書き、小遣い稼ぎもしていたことも知っていました。「どっぷり浸かってしまった俺たちはもうだめだ。でも会見で鋭い質問をする君には期待していたんだ……」。そう言って、私の肩をたたき、別れを惜しんでくれました。

申し訳ありません。ここまで書いて来たところで、また今回の紙数が尽きました。こうして私は東京本社から豊田支局に向かったのです。再び、名古屋部長との死闘が始まったことから、次回は始めたいと思います。ぜひ次もご愛読頂ければ幸いです。

≪筆者紹介≫ 吉竹幸則(よしたけ・ゆきのり)

フリージャーナリスト。元朝日新聞記者。名古屋本社社会部で、警察、司法、調査報道などを担当。東京本社政治部で、首相番、自民党サブキャップ、遊軍、内政キャップを歴任。無駄な公共事業・長良川河口堰のウソを暴く報道を朝日から止められ、記者の職を剥奪され、名古屋本社広報室長を経て、ブラ勤に至る。記者の「報道実現権」を主張、朝日相手の不当差別訴訟は、戦前同様の報道規制に道を開く裁判所のデッチ上げ判決で敗訴に至る。その経過を描き、国民の「知る権利」の危機を訴える「報道弾圧」(東京図書出版)著者。